ジョン・ピアポント・モルガンの父、ジューニアスは仕事の塊で、自分に降りかかる激務を手放すことができませんでした。ピアポントは、父が60歳になった1873年当時すでに仕事を減らすよう勧めて、「私と同じくらい休養を取る必要があると思いますのに、なぜ週に2日の休みが取れないのか不思議です」と書き送っています。ジューニアスは牡羊座太陽・金星を持ち、山羊座の火星・土星とスクエアを持っています。金融の世界においてナンバーワンでありたい、という強い牡羊座の欲求が山羊座の火星・土星という集中的で不断の努力によってその頂点へと押し上げます。土星は冥王星という極端な星と関わり、目的のために身を粉にして働くことに疑問を持たず、それが当然であるかのように働き続けます。
1860年代当時のイギリスではマーチャント・バンクのなかでも選り抜きのロスチャイルド、ベアリング両商会の商売領域は、それまではアメリカ人金融業者の立ち入れない世界であり、それだけにジューニアス・モルガンが足を踏み入れたいと渇望した世界でした。ジューニアスは世界を驚かせるような大胆な行動に出て、一挙にビクトリア女王治世下の英国金融業界のトップクラスに躍り出たがっていましたが、そこへチャンスが訪れます。
1870年、普仏戦争で敗れたフランスは資金不足に陥り、海外で公債発行を行う必要に迫られます。しかし、主要金融機関はリスクの高さから引受けを拒否する中、ジューニアス・モルガンは1000万ポンドのフランス公債をシンジケート方式で引き受ける決断を下します。これは複数の銀行でリスクを分担する当時新しい手法でしたが、それでも情勢は極めて不安定で、公債価格は戦況悪化により大きく下落。破産寸前まで追い込まれながらも買い支えを続けました。
フランス公債は1871年7月頃に第一次賠償公債、1872年7月に第二次賠償公債が発行されています。第一次賠償公債が発行された時期はジューニアスの出生図の木星の上に天王星、出生図の天王星とトランジット天王星と120度を形成し、まさにマーチャント・バンクとして社会的に抜きんでて認知度を高めるという千歳一隅のチャンスが来ていることを表します。1872年の第二次賠償公債発行の時期には出生図の土星・冥王星とトランジット冥王星が60度で調和した小三角を形成、そこにジューニアスの進行太陽が30度を取ります。この時期は出生図の土星の上にトランジット土星が回帰するという土星回帰の時期でもありました。惑星間の角度が調和をしていたとしても、冥王星や土星といった重い星が絡むと決して穏やかな時期ではなく、人生を大きく変える試練の転換点となりがちです。元々出生図に土星・冥王星の耐性を持っていた彼だからこそ、この息のつけない厳しい星回りにあえてチャレンジすることができたのでしょう。

やがて戦争終結後の1873年、フランス政府は公債を額面で繰上償還し、結果として彼は約150万ポンドという莫大な利益を手にしたのです。この成功によりJ・S・モルガン商会は一躍、政府資金調達を担う一流銀行へと躍進し、ジューニアス自身もロンドン金融界で屈指の存在となりました。大胆なリスクを取ったこのフランス公債引受けこそが、彼の名声と地位を決定づけた最大の成果でした。
ジューニアスは、こうしてロンドンで一番金持ちのアメリカ人金融業者に成長していき、同時に、身のまわりを壮麗に飾り立て始めます。ハイドパーク南側にネオクラシズム様式の五階建ての邸宅を構え、執事にかしずかれた家族が正装でディナーをとり、食後に赤ぶどう酒を飲み、ハバナ葉巻で一服するのが常だったようです。邸宅は美術館さながらで、有名画家の傑作が揃っていました。その邸宅から7マイル離れたロンドン郊外にもまたテムズ河畔まで広がる92エーカーの別邸を購入しました。
1880年代後半になり、そのころには既にロンドンでは最も影響力を持つアメリカ人銀行家にのしあがっていたジューニアスですが、健康の衰えを感じ始め、だんだん仕事から手を引き始めました。1890年4月3日の午後、モンテカルロのヴィラ・アンリエッテでいつものように馬車で遠出した際、馬が突進してくる汽車に驚いて、石の積み重ねられた山に馬車が突っ込み、ジューニアスは壁に強く叩きつけられ、その5日後に息を引き取りました。田園風景を騒がす汽車の轟音がロンドン有数の鉄道資本家の一人の命を奪ったのは、奇妙な符合といわざるを得ないでしょう。
ジューニアスの出生図では10の惑星のうち6の星が活動宮に入ります。人生を休むことなく仕事に捧げ、太平洋を渡り憧れたイギリス貴族社会における米国金融業者のトップの座を手に入れ、その帝国を手塩にかけて育てた息子に引き継ぎ、社会的地位と物質的にも大いに恵まれた生活を手にしたのは、彼にとって、満ち足りた人生だったのでしょう。
参考資料:[モルガン家 金融帝国の盛衰㊤] ロン・チャ―ナウ 著