J・P・モルガン⑬ ― 老いた孤高の海賊が遺したもの

ピアポントの影響力は、1907年金融恐慌とともに頂点に達しました。当時のプリンストン大学総長は、知識人から成る委員会に国家の将来を諮問すべきだとして、その委員長にピアポントを推したほどでした。ところがこうした賛辞とは裏腹に、アメリカの金融制度の在り方をめぐって新たな心配が生じてきました。アメリカでは金融恐慌がほぼ10年ごとに起きていましたが、1907年恐慌によって、制度上の欠陥が多数露呈します。当時のアメリカには中央銀行がなく、金融危機の際に資金不足を補う仕組みがなかったため、不況が深刻化しやすかったのです。

そしてこの時期ピアポント・モルガンを中心とする金融勢力が銀行・鉄道・大企業を実質的に支配しているとの批判が高まり、その実態を調査するために1912年、下院のプジョー小委員会が設置され、ピアポントは審問の場に引っ張り出されます。

老いたピアポントはプジョー小委員会の場での厳しい審問から決して立ち直れませんでした。ピアポントは、怒りっぽすぎるほどの性格でしたから、政治家からの攻撃を簡単に静観できず、また新聞の風刺漫画が自分を鬼畜の如く描くのにも我慢なりませんでした。自分のことを、寛大で温情あるボス、慈愛あふれるおじいちゃんと思い込んでいたので、社会が実業家に厳しい目を向け始めたのにすっかり困惑しました。ピアポントの心は乙女座でした。目の前の問題を整理し、社会に貢献してきたという自負があっただけに、自分では不当だと感じる非難を受けることは耐え難かったでしょう。

プジョー小委員会の3か月後に彼は亡くなりますが、そのころ彼は革新主義諸政党の企業規制をうるさく求める騒ぎを避けて、ヨーロッパで過ごすことが多かったようです。牡羊座太陽らしく強い独立心を持つピアポントでしたから、世俗的な名声はおそらくその孤立感を深めただけだったでしょう。これほどの金融界の大御所でありながら、金融街でモルガンと会えば話を交わす程度の普通の交際のあった人々は50人もいなかったと言われています。

ピアポントの体は衰弱していき、ついにローマのグランド・ホテルの一泊500ドルのスイート・ルームに閉じこもることになります。ピアポントが末期の病状だとの知らせは美術業界を揺るがしました。ホテルに美術商、骨董商、貴族らが押し寄せ、これを最後に臨終の床の銀行家に絵や彫刻を売りさばこうとしました。1913年3月31日、錯乱状態に陥ったのち真夜中過ぎに亡くなりましたが、それから24時間以内に、ローマ教皇のほか3,697人の人々が弔電をホテルに寄せました。

亡くなったとき彼は75歳でしたが、その20年前の50歳代にして、すでに生命保険をかけるのを医師から認められなかったほど良くない健康状態でした。葉巻を日に十数本吸い、深酒をし、運動もほとんどしませんでした。このように無数の病気を抱え、しかも悪い習慣を断ち切れなかった身で75歳まで生き永らえたのは、奇跡に近かったと言えるでしょう。

ところでピアポントは、亡くなるまでにどれほどの財産を蓄えていたのでしょうか?美術品コレクションを別にして、遺産は6,830万ドル(現在の価値で約3,000億円)に達し、そのうち約3,000万ドルはモルガン系各銀行の持株でした。美術品コレクションの価値は、美術商デュヴィーンの評価では5,000万ドルでした。この明らかにされた金額を一部の人々は信じず、気の毒にすら思ったのです。鉄鋼王アンドリュー・カーネギーは、ピアポントの意外な清貧さを知って心から悲しみ、「彼が思ったほど金持ちでなかったとは」と絶句しました。ピアポントの身代は、カーネギー、ロックフェラー、フォード、ないしはハリマンら大企業経営者の足元にも及ばなかったのです。

ピアポントは守銭奴として語られることもありますが、実際には熱心な美術愛好家でした。彼の収集は稀覯本や写本から始まり、やがて絵画や彫刻、タペストリーなどへと広がりました。美術品にまつわる逸話を子どものような好奇心で聞きたがり、その知識も豊富だったそうです。

その収集は単なる見栄や投機目的ではなく、彼はアメリカを自ら敬愛するヨーロッパ文化と肩を並べる国にしたいと考え、アメリカ人がわざわざヨーロッパへ渡らなくても一流の文化に触れられる環境を作ろうとしていました。実際、彼は利益を度外視して莫大な資金を美術品の購入に注ぎ込み、その規模は本業の金融業を危うくしそうになるほどでした。後にモルガン商会の関係者は、「老モルガンが一部お金もうけのために絵画やタペストリーを買ったのだとの見方は、はっきりと事実に反している。あれは途方もない規模で好き勝手なことをしただけのことで、社にとって大きな不安のもとだったし、社の弱みになったこともよくあった。老モルガンがあんなに気前よく浪費せず、金を事業資金に回していたら、もっとよい使い途があっただろう」と振り返っています。

ピアポントの美術品の収集とそれにかけたお金と愛情を出生図の星々の関連で見てみましょう。ピアポントは金星・海王星・月が創造性や遊び心に関連する5分割系のアスペクトの小三角を作っています。ピアポントは愛艇でのパーティや美術品を探し出してはコレクションに加えていくのが楽しみでした。海王星は12ハウスにあり、海や芸術、忘れられたものへの憧れを示しますが、その中から資産を表す2ハウス金星を乙女座月の観察力で本物を探り当てるという宝探しにワクワクしたのではないでしょうか。さらにその海王星を火星・木星が180度で貫き、海王星と天王星とも協調して死後のモルガン美術館設立となります。

死後、大西洋の両側で関係者が喪に服し、ロンドンのウェストミンスター寺院やニューヨーク証券取引所では追悼式が行われ、海運会社の船舶は半旗を掲げ、遺体はモルガン文庫に安置された後、遺言に従いシーダーヒル墓地の一族の霊廟に埋葬されました。

ピアポントの死は当時の新聞や雑誌で大きく取り上げられました。後から振り返ってみると、ピアポント・モルガンが大人物に見えたのは、彼の生きた(金融王の時代)の特徴のせいだった面があります。多くの金融機関は、地域的規模を脱して全国的規模に成長したばかりで、以前より幅広く資金を調達するためにウォール街の投資銀行の助けを必要としました。ピアポントの融資先の各国政府ですら、現在と比べると組織が単純で、今日のように中央銀行、税制、大蔵省などが整っていなかったのです。

ピアポントは巨万の富そのものに執着する人ではなく、商売を人生の目的と考える人でもありませんでした。彼が本当に情熱を傾け、そのとりことなった対象とは、女性と美術品と宗教でした。自身が生まれながらに受け継いだ重すぎる責任で事業をまわし、当時のアメリカ金融の枠組みを整理し、数々の重圧を癒したのはまさに海王星の癒しでした。愛艇コーセア号、海や美術品を愛したピアポント。彼がそのまなざしで愛でた美は地上では得られないものだったのかもしれません。

ところで、ピアポントは占星術師Evangeline Adamsによく鑑定を依頼していた記録が残っています。その彼の有名な言葉に「Millionaires don’t use Astrology. Billionaires do. (百万長者は占星術を使わないが、億万長者は使う)」というものがあります。金融王の言葉としては少し意外な気もしますが、海王星や冥王星を強く持つ彼らしい発言にも聞こえます。あなたはどう思いますか?

参考資料:[モルガン家 金融帝国の盛衰㊤] ロン・チャーナウ 著

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